2011年4月21日木曜日

先月はACのテレビ広告にホッとしたのです。

たしかにあの高い声での「エィシィー」が繰り返されるの「だけ」は耳障りではありました。
ヴァリエーションの少ないTV広告が繰り返し流されて、ACへ苦情の電話が殺到したそうです。
中には「今から刃物を持って押しかけるぞ」という、どう間違えればそうなるのかというような脅迫もあったそうです。


でも、でも、あの大災害のなかで、言うまでもなく利益追求的な広告を控え、なおかつ知らしめるに値する内容って、ああいう人間の善なる部分に関わるものしか無いと思うのです。
最近は「日本の」という表現がやや安易に使われた新作が目につきますが、
あいさつが人と人とを繋げるとか、生きるとは他の命をつぶしてつないでいるとか、思いに形を与えるとか、通俗道徳的なものもありますが、ごく真っ当な内容。


こんな、社会がぐちゃぐちゃになってしまいかねない事態にあって、ああいう誰もが持っている筈の善なる心のありようを促す広告がしつこく沢山流れていたことを振り返って、私はテレビが珍しくいい仕事をしたな、と思っているのです。

ACのリンクを置いておきます。

2011年4月14日木曜日

「〜れば」「〜たら」とは後出しじゃんけんです

ここから先どのような道を歩くか、という選択肢は無限にあります。
でも、実際に歩くことのできた道は常にひとつしかありません。

「あの時おまえがこうしていたら(こうしていなければ)」と人を責めるのは本質的には野暮というものです。その過去は変えることができないだけでなく、「自分」とその相手の取捨選択とはまったく無関係というものでもないのです。

われわれ人間というものは多かれ少なかれこの野暮を繰り返すのでしょう。
しかしもう少し賢くなれる方図はないもの、か。