2011年10月17日月曜日


iPhone4Sにケースを着ける。色・形・素材いろいろありすぎて迷う前に自分の欲しいタイプに行き着くまでもひと手間。

iPhoneは仕上がりが綺麗なので傷だらけにしたくはないが、携帯電話に「個性」を「演出」しようといった事態もまたうまく考えられない私は特に薄型と思われるこれを選んだ。手にしても余分な感じが無く、サイドのぼつぼつが握りやすい。

せっかく各色用意されているのだけど、結局どのイロも選べずやっぱり黒でしょクロ、と無難?な選択に落ち着いた。

初めは文字や白スペースが邪魔と思ったものの、思い返せば白黒はしばしば私の身近にあったのだった。子供の頃の教室から今の毎日の仕事にいたる習字、うまく操縦出来れば宇宙に連れていってくれる筈のピアノ、薄暗い暗室で深き淵を現出させる写真、床の間や美術館でまみえる水墨の奥行き、命の動くさまが垣間見える黒い眼の大きな大きなましろ犬。

折角なので、ピアノで写真を撮った。
カメラを構えていると小学生の頃好きで聴いていたP.マッカートニーの『Ebony and Ivory』が脳裏に流れだす。

2011年10月6日木曜日

スティーブ・ジョブズ亡くなる

どのような地平を拓くかは、ある事物に接したときにそれを通して何を観るかによる。

2011年7月10日日曜日

もったいない子供たち

暑い昼下がりから境内に中学生くらいの子供たちのグループが、飲んだり食ったりしながらたむろしている。夏休みか?いやまだか、土日なのだな。

彼らは去年くらいからしばしば見るから、おそらく近くに住んでいるのだろう。いつも飲み食いしたゴミやらなんやらを、そこら辺にたくさん散らかしたままにして去って行くので、何度か「自分で飲み食いしたものは持ち帰ってーや」と言ったことがある。
しかし大人に反発したい背伸びな年頃と集団心理からくる安心感、そして普通の大人が危害を加えない前提を承知しているのだろう、わざとえらそうな態度で「あぁ!」とか「あいよ!」と返してくる子もいる。しかし結局そんな自分の返事さえ履行することができず、だらしなくゴミは捨てられたまま。今日は他の人と挨拶をかわす私の姿を見て「・・よぶんなシボウのせいであついんだわ!」と嗤っていたのが聞こえた。脂肪が多いのは事実だが暑いのは別だ。まあ仕方ない。

内容にかかわらず大人の「指図」の内容に沿ったら「負け」と思っているのか。あるいは仲間うちの中にあって自分ひとりが虚勢を張るのをやめる訳にもいかない、といった心理もあるのかもしれぬ。ならば言葉は通じまい。言葉が通じないのなら注意は無意味だ、アホらしいということでやめた方がいいのか?

後始末ができない彼らのゴミを片付けるのは端的に鬱陶しいとは思うが、大人にだって彼らと同じように飲み食いし散らかしたり、野良ネコに餌をやりに来たりハトに残飯をまき散らしたり、家庭からゴミを捨てにくるような人間がいるのをこの境内で見てきている。そして注意されればやはり逆ギレするヒトもいるのだ。ついこんな意味のことを口にしてしまう。
「ここはあなたのウチなのか?よその域内に入って何をしているんだ?」

・・と結局大人でもひどいていたらくは時々あるし、自分とていいかげんな所は沢山あるが、彼らのような子供たちを見るにつけ可哀想だな、というか残念な気分になる。

彼らが反発するその大人が作った法律やシステムやカネでぬくぬくと保護されながら、同時に身近な大人に良き教育を与えられず、アホをやらされている内に、中にはそのままつまらない生きざまを続けるしかない子が出てくるかもしれない、ということがほんとうに気の毒でもったいないと感じるのだ。

気の毒、とは言ったが、それでも自分のケツは自分で拭くしかない。人が育つ環境には常に不備が付きものだが、だからといってくだらない大人になってしまえばその責任はその本人が引き受ける他はないのである。
私は他人のゴミを掃除するのがイヤではないとは到底いえないが、自分の人生自体をまるまる汚物にする方がはるかにずっとイヤだ。

私はあのようにしか振る舞えない彼らに通じる上手い手段を持ち合わせていない。もういくばくかの月日を重ねるうちに彼らが自ら気付ける日が来ることを待とうと思う。

おまえ、ボーズがなんとかしろよ!って誹りを受けそうだけど、ごめんオレ修行がまだまだ足りなくて、そこまでなんとか出来るほどにジョーズじゃないことを思い知らされているのよ。ふん。

2011年6月27日月曜日

大峯山に登りました。

6/13-14の日程でこの度で三度目の入峰となる大峯の修験道を行じてきました。
行くまではもうこれで登るのをやめてもいいかな、なんてへたれた事を考えたりしましたが、やっぱり言ってみると「自分」というものの思い込みのスケール感が吹っ飛んで、やっぱりまた行けるものなら行きたいと思ったものでした。

2011年5月21日土曜日

5/19のホーキング博士の記事について

5/19のホーキング博士の記事については、結局煽動的な見出しと「要約」にしてやられてしまった。横着をして原文に当らなかったことで、編集者の掘った落とし穴にまんまとはまったということだった。
これは友人が指摘してくれたのだけど、原文はここ。

あくまで徹底的に物理の目で宇宙をとらえた博士のことば。
かえって読み手はなおも残る底なしの謎を浮き彫りにすることになるが、それを見つめるのは科学でもなければ妄信でもない。

2011年5月20日金曜日

金澤攝さんに会った。

昼食をとり終えてから、本堂の受付から呼び出しがあり、行ってみると作曲家・ピアニストの金澤攝さんがいらっしゃっていました。もう五年ほどお目にかかっていないので懐かしかったです。
お参りをされてから短い間でしたが、お話を聞く事が出来ました。
金澤さんは19世紀を主とする現代では忘れられてしまった優れた作曲家の作品を「発掘」し、その演奏などを通して人びとに知らしめ、それらを通覧出来るようにまとめていくという途方もない仕事に取り組んでいます。

その数300人、10,000曲。

それがただの名前の羅列ではなく、音楽家一人ひとりさえもが自覚しえなかった当時の時代の音楽の気分というものを浮き彫りにするような巨大な「星図」が現れることでしょう。その日が待ち遠しいです。
金澤さんはずっと仕事に取り組み続けていて、この度は休養を取られた中でのご参拝だったようです。

名古屋での活動はしばらくされていませんが、また演奏を聴けたらと思いました。

2011年5月19日木曜日

ホーキング博士はヤキが回ったのか、あるいは彼の名誉のために言い替えるならば何らかの圧力でもあったのか。

(5/21:この記事は下記に引用した要約が不正確だったため、後日追記します。)
これは、ホーキング博士の物理学での仕事に言及するものではない。
以下の要約記事が大意を誤っていないのなら、博士は一体どうしてしまったのだろう。どういうわけでものの分からなさが分からないようになってしまったのか。

(YAHOOニュース)ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と述べた。

(ロイター)重力などの法則があるため、宇宙は無から自らを創造できると指摘。「宇宙を創造させるのに神を呼ぶ必要はない」と付け加えた。

言葉尻を捕まえて揚げ足取りをするレヴェルの話ではなく、論理的に破綻しているので、この記事を読んで違和感を持った人はそれなりにいるのではないか。

・かりに、壊れたコンピュータ=死者の脳、であるとしよう(実際はそんなこと言い切れるのか、を置いておく)。それら他者の「死後」を(おそらく観察出来ないからという程度の理由で)「無い」とどうして言い切れるのか。さなくばまさか「自ら」「死」を「体験」した上でカタったのか。
・「無」は無である。無い、のである。その「無」が「自らを」「創造」するならば、もはやそれは無ではあるまいて。
・「法則」は「有」である。それは無ではない。そしてその「法則」を有らしめるものについて「有」を「無」とカタれるものならカタってみよ。

決して科学を否定しないし、「死後の世界」とやらがあると言っているのではない。
観察と検証を繰り返し、ある仮定がそのプロセスにおいて食い違いを生じない時にそれを「法則」として認めるという、まさに科学的態度で臨むのなら、そのプロセスが実行出来ない事柄については断定を避けるのが科学者なら真っ当というものであろう。

神や仏という宗教の語を使いたくなければ「謎」と呼べばよいのである。
謎は解明されるものもそうでないものもあろう。それを説明出来ないからと言って「ない」と言いきるのはおこがましいというものだ。

謎を認めるのは「闇を恐れ」ているからではない。
ホーキング博士、あなたこそ「謎」を、「不知」をもしや恐れているのではないか。
宇宙は広く、私たちは謎を生きているのだよ。

あなたがそう発言したという報せが間違いだと信じたい。

2011年4月21日木曜日

先月はACのテレビ広告にホッとしたのです。

たしかにあの高い声での「エィシィー」が繰り返されるの「だけ」は耳障りではありました。
ヴァリエーションの少ないTV広告が繰り返し流されて、ACへ苦情の電話が殺到したそうです。
中には「今から刃物を持って押しかけるぞ」という、どう間違えればそうなるのかというような脅迫もあったそうです。


でも、でも、あの大災害のなかで、言うまでもなく利益追求的な広告を控え、なおかつ知らしめるに値する内容って、ああいう人間の善なる部分に関わるものしか無いと思うのです。
最近は「日本の」という表現がやや安易に使われた新作が目につきますが、
あいさつが人と人とを繋げるとか、生きるとは他の命をつぶしてつないでいるとか、思いに形を与えるとか、通俗道徳的なものもありますが、ごく真っ当な内容。


こんな、社会がぐちゃぐちゃになってしまいかねない事態にあって、ああいう誰もが持っている筈の善なる心のありようを促す広告がしつこく沢山流れていたことを振り返って、私はテレビが珍しくいい仕事をしたな、と思っているのです。

ACのリンクを置いておきます。

2011年4月14日木曜日

「〜れば」「〜たら」とは後出しじゃんけんです

ここから先どのような道を歩くか、という選択肢は無限にあります。
でも、実際に歩くことのできた道は常にひとつしかありません。

「あの時おまえがこうしていたら(こうしていなければ)」と人を責めるのは本質的には野暮というものです。その過去は変えることができないだけでなく、「自分」とその相手の取捨選択とはまったく無関係というものでもないのです。

われわれ人間というものは多かれ少なかれこの野暮を繰り返すのでしょう。
しかしもう少し賢くなれる方図はないもの、か。