2011年12月10日土曜日

かさでらんらんモチモチフェスタ2011のお知らせ

かさでらんらんモチモチフェスタ2011が12/11(日)に行われます。
人力車・餅つき・Ustream中継・福引きなどお楽しみ満載です。
(かんでら門前亭・商店街の主催です。→案内ページ
http://www.ustream.tv/recorded/18833434

2011年12月4日日曜日

選曲について回る悩み

先日の友人のピアノリサイタルを真近に接して、自分もリサイタルは無理としても何人かで曲を持ち寄って弾く演奏会ならやりたいな、という気持ちが強くなっている。やっぱり音楽はいいなあ。 ピアノの練習は表現以前に曲を弾けるようにするだけでも大変だ。何となく弾きたいというだけでは、私のようなさしたる腕を持たないアマチュアが曲を身につける程練習に力を注げないのが情けないが実情なのだ。 しかし、人様に聴いていただく、という確たる目的があるのであれば日々のアレやコレやの中でも練習の困難にいくらか立ち向かうこともできる、とおもう。 演奏会、やれるものならやりたいなあ。 しかしその上でも問題はいくつかあって、中でも私個人としては選曲で悩む。 当然限られた期間で準備できる難易度と規模でなければいけないのだが、問題はその曲が有名であるか否かだ。 自分の気持ちだけで言えば、同じくらい魅力を感じる曲ならば知られていない方の曲を紹介したいし、そもそも自分の好む曲は割合として有名曲よりも余り一般に知られていない作品が多い。 いっぽう過去にサークルなどで演奏会に参加した時のアンケートには「もっと有名な曲をやって欲しい」という意見がたまに見られ、聴いたことのない作品に対しては関心を持ちにくい事もしめしている。これは初めて聴く曲が魅力的に響くかどうかの演奏能力の問題を抜きにしては語れないものの、同時に初めての作品に接した時にどう振舞ったら良いのか困ってしまうというのは想像に難くない。聴きに来てくださるお客さんの多くは常にクラシック音楽を愛好する人ばかりでなく、友人・知人が出ているから、という動機で足を運んでくださる方も多いのだから。 上記アンケートのものではないが、「無名な曲を選ぶなんて自分の下手さをゴマかすためだろ?!」といった乱暴な穿った感想にまで与しはしないものの、「自分が紹介したい非有名曲だとお客さんを退屈させるかもしれない。」という危惧をいだきながらも結局自分が頑張って取り組める曲を選ぶ他ないのも本心である。でもやっぱり受け容れられないのだろうかというヒヤヒヤは払拭できていない。 もし演奏の機会ができたら、さてどうしよう。 幸運な例外として先日友人づてに嬉しい話を聞いた。 「いつぞや彼(=私)が弾いていたグレインジャーのコロニアル・ソングという曲が良かったよ」 頑張って良かった、と思った一瞬。

2011年11月27日日曜日

友人のピアノリサイタル

昨日は友人のピアノリサイタルでナビゲーションをつとめた。お客さんはみんながクラシック作品について知識があるわけではないので、作曲家や作品について簡単な解説をして演奏される音楽への理解や楽しみにを深めてもらうのが目的だ。
私の横着な解説ではあったが皆さんに多少なりとも伝わればありがたいことだと思う。
何よりも演奏が安定したものでその作品のらしさを伝えていたのが素晴らしい、いい演奏会だったのが良かった。
ご来場の皆様、ありがとうございました。

2011年11月19日土曜日

教養。

教養のある人というのは、自分が関わっていない事柄については、安直な論評をしたり、むやみにそれを軽んじたりしないものなのですね。

・・・自戒も込めて。

2011年10月17日月曜日


iPhone4Sにケースを着ける。色・形・素材いろいろありすぎて迷う前に自分の欲しいタイプに行き着くまでもひと手間。

iPhoneは仕上がりが綺麗なので傷だらけにしたくはないが、携帯電話に「個性」を「演出」しようといった事態もまたうまく考えられない私は特に薄型と思われるこれを選んだ。手にしても余分な感じが無く、サイドのぼつぼつが握りやすい。

せっかく各色用意されているのだけど、結局どのイロも選べずやっぱり黒でしょクロ、と無難?な選択に落ち着いた。

初めは文字や白スペースが邪魔と思ったものの、思い返せば白黒はしばしば私の身近にあったのだった。子供の頃の教室から今の毎日の仕事にいたる習字、うまく操縦出来れば宇宙に連れていってくれる筈のピアノ、薄暗い暗室で深き淵を現出させる写真、床の間や美術館でまみえる水墨の奥行き、命の動くさまが垣間見える黒い眼の大きな大きなましろ犬。

折角なので、ピアノで写真を撮った。
カメラを構えていると小学生の頃好きで聴いていたP.マッカートニーの『Ebony and Ivory』が脳裏に流れだす。

2011年10月6日木曜日

スティーブ・ジョブズ亡くなる

どのような地平を拓くかは、ある事物に接したときにそれを通して何を観るかによる。

2011年7月10日日曜日

もったいない子供たち

暑い昼下がりから境内に中学生くらいの子供たちのグループが、飲んだり食ったりしながらたむろしている。夏休みか?いやまだか、土日なのだな。

彼らは去年くらいからしばしば見るから、おそらく近くに住んでいるのだろう。いつも飲み食いしたゴミやらなんやらを、そこら辺にたくさん散らかしたままにして去って行くので、何度か「自分で飲み食いしたものは持ち帰ってーや」と言ったことがある。
しかし大人に反発したい背伸びな年頃と集団心理からくる安心感、そして普通の大人が危害を加えない前提を承知しているのだろう、わざとえらそうな態度で「あぁ!」とか「あいよ!」と返してくる子もいる。しかし結局そんな自分の返事さえ履行することができず、だらしなくゴミは捨てられたまま。今日は他の人と挨拶をかわす私の姿を見て「・・よぶんなシボウのせいであついんだわ!」と嗤っていたのが聞こえた。脂肪が多いのは事実だが暑いのは別だ。まあ仕方ない。

内容にかかわらず大人の「指図」の内容に沿ったら「負け」と思っているのか。あるいは仲間うちの中にあって自分ひとりが虚勢を張るのをやめる訳にもいかない、といった心理もあるのかもしれぬ。ならば言葉は通じまい。言葉が通じないのなら注意は無意味だ、アホらしいということでやめた方がいいのか?

後始末ができない彼らのゴミを片付けるのは端的に鬱陶しいとは思うが、大人にだって彼らと同じように飲み食いし散らかしたり、野良ネコに餌をやりに来たりハトに残飯をまき散らしたり、家庭からゴミを捨てにくるような人間がいるのをこの境内で見てきている。そして注意されればやはり逆ギレするヒトもいるのだ。ついこんな意味のことを口にしてしまう。
「ここはあなたのウチなのか?よその域内に入って何をしているんだ?」

・・と結局大人でもひどいていたらくは時々あるし、自分とていいかげんな所は沢山あるが、彼らのような子供たちを見るにつけ可哀想だな、というか残念な気分になる。

彼らが反発するその大人が作った法律やシステムやカネでぬくぬくと保護されながら、同時に身近な大人に良き教育を与えられず、アホをやらされている内に、中にはそのままつまらない生きざまを続けるしかない子が出てくるかもしれない、ということがほんとうに気の毒でもったいないと感じるのだ。

気の毒、とは言ったが、それでも自分のケツは自分で拭くしかない。人が育つ環境には常に不備が付きものだが、だからといってくだらない大人になってしまえばその責任はその本人が引き受ける他はないのである。
私は他人のゴミを掃除するのがイヤではないとは到底いえないが、自分の人生自体をまるまる汚物にする方がはるかにずっとイヤだ。

私はあのようにしか振る舞えない彼らに通じる上手い手段を持ち合わせていない。もういくばくかの月日を重ねるうちに彼らが自ら気付ける日が来ることを待とうと思う。

おまえ、ボーズがなんとかしろよ!って誹りを受けそうだけど、ごめんオレ修行がまだまだ足りなくて、そこまでなんとか出来るほどにジョーズじゃないことを思い知らされているのよ。ふん。

2011年6月27日月曜日

大峯山に登りました。

6/13-14の日程でこの度で三度目の入峰となる大峯の修験道を行じてきました。
行くまではもうこれで登るのをやめてもいいかな、なんてへたれた事を考えたりしましたが、やっぱり言ってみると「自分」というものの思い込みのスケール感が吹っ飛んで、やっぱりまた行けるものなら行きたいと思ったものでした。

2011年5月21日土曜日

5/19のホーキング博士の記事について

5/19のホーキング博士の記事については、結局煽動的な見出しと「要約」にしてやられてしまった。横着をして原文に当らなかったことで、編集者の掘った落とし穴にまんまとはまったということだった。
これは友人が指摘してくれたのだけど、原文はここ

あくまで徹底的に物理の目で宇宙をとらえた博士のことば。
かえって読み手はなおも残る底なしの謎を浮き彫りにすることになるが、それを見つめるのは科学でもなければ妄信でもない。

2011年5月20日金曜日

金澤攝さんに会った。

昼食をとり終えてから、本堂の受付から呼び出しがあり、行ってみると作曲家・ピアニストの金澤攝さんがいらっしゃっていました。もう五年ほどお目にかかっていないので懐かしかったです。
お参りをされてから短い間でしたが、お話を聞く事が出来ました。
金澤さんは19世紀を主とする現代では忘れられてしまった優れた作曲家の作品を「発掘」し、その演奏などを通して人びとに知らしめ、それらを通覧出来るようにまとめていくという途方もない仕事に取り組んでいます。

その数300人、10,000曲。

それがただの名前の羅列ではなく、音楽家一人ひとりさえもが自覚しえなかった当時の時代の音楽の気分というものを浮き彫りにするような巨大な「星図」が現れることでしょう。その日が待ち遠しいです。
金澤さんはずっと仕事に取り組み続けていて、この度は休養を取られた中でのご参拝だったようです。

名古屋での活動はしばらくされていませんが、また演奏を聴けたらと思いました。

2011年5月19日木曜日

ホーキング博士はヤキが回ったのか、あるいは彼の名誉のために言い替えるならば何らかの圧力でもあったのか。

(5/21:この記事は下記に引用した要約が不正確だったため、後日追記します。)
これは、ホーキング博士の物理学での仕事に言及するものではない。
以下の要約記事が大意を誤っていないのなら、博士は一体どうしてしまったのだろう。どういうわけでものの分からなさが分からないようになってしまったのか。

(YAHOOニュース)ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と述べた。

(ロイター)重力などの法則があるため、宇宙は無から自らを創造できると指摘。「宇宙を創造させるのに神を呼ぶ必要はない」と付け加えた。

言葉尻を捕まえて揚げ足取りをするレヴェルの話ではなく、論理的に破綻しているので、この記事を読んで違和感を持った人はそれなりにいるのではないか。

・かりに、壊れたコンピュータ=死者の脳、であるとしよう(実際はそんなこと言い切れるのか、を置いておく)。それら他者の「死後」を(おそらく観察出来ないからという程度の理由で)「無い」とどうして言い切れるのか。さなくばまさか「自ら」「死」を「体験」した上でカタったのか。
・「無」は無である。無い、のである。その「無」が「自らを」「創造」するならば、もはやそれは無ではあるまいて。
・「法則」は「有」である。それは無ではない。そしてその「法則」を有らしめるものについて「有」を「無」とカタれるものならカタってみよ。

決して科学を否定しないし、「死後の世界」とやらがあると言っているのではない。
観察と検証を繰り返し、ある仮定がそのプロセスにおいて食い違いを生じない時にそれを「法則」として認めるという、まさに科学的態度で臨むのなら、そのプロセスが実行出来ない事柄については断定を避けるのが科学者なら真っ当というものであろう。

神や仏という宗教の語を使いたくなければ「謎」と呼べばよいのである。
謎は解明されるものもそうでないものもあろう。それを説明出来ないからと言って「ない」と言いきるのはおこがましいというものだ。

謎を認めるのは「闇を恐れ」ているからではない。
ホーキング博士、あなたこそ「謎」を、「不知」をもしや恐れているのではないか。
宇宙は広く、私たちは謎を生きているのだよ。

あなたがそう発言したという報せが間違いだと信じたい。

2011年4月21日木曜日

先月はACのテレビ広告にホッとしたのです。

たしかにあの高い声での「エィシィー」が繰り返されるの「だけ」は耳障りではありました。
ヴァリエーションの少ないTV広告が繰り返し流されて、ACへ苦情の電話が殺到したそうです。
中には「今から刃物を持って押しかけるぞ」という、どう間違えればそうなるのかというような脅迫もあったそうです。


でも、でも、あの大災害のなかで、言うまでもなく利益追求的な広告を控え、なおかつ知らしめるに値する内容って、ああいう人間の善なる部分に関わるものしか無いと思うのです。
最近は「日本の」という表現がやや安易に使われた新作が目につきますが、
あいさつが人と人とを繋げるとか、生きるとは他の命をつぶしてつないでいるとか、思いに形を与えるとか、通俗道徳的なものもありますが、ごく真っ当な内容。


こんな、社会がぐちゃぐちゃになってしまいかねない事態にあって、ああいう誰もが持っている筈の善なる心のありようを促す広告がしつこく沢山流れていたことを振り返って、私はテレビが珍しくいい仕事をしたな、と思っているのです。

ACのリンクを置いておきます。

2011年4月14日木曜日

「〜れば」「〜たら」とは後出しじゃんけんです

ここから先どのような道を歩くか、という選択肢は無限にあります。
でも、実際に歩くことのできた道は常にひとつしかありません。

「あの時おまえがこうしていたら(こうしていなければ)」と人を責めるのは本質的には野暮というものです。その過去は変えることができないだけでなく、「自分」とその相手の取捨選択とはまったく無関係というものでもないのです。

われわれ人間というものは多かれ少なかれこの野暮を繰り返すのでしょう。
しかしもう少し賢くなれる方図はないもの、か。

2011年3月28日月曜日

有り難し


窓から外を見やる。

「当り前」の生活はぎりぎりの僥倖の上になりたっていた。

だから、ほんとうは当り前ではない。

ものすごい当選確率の中で「有ること難き」幸運を射止めている「わたし」たち。

「ありがとう」は、単に「ユーに感謝」というのみならず、得がたきものをたまたま自分に与えてくれた諸々の繋がりを自覚する言葉でもある。

2011年3月21日月曜日

ぎっくり腰。。

午前中、となりの西方院さんで法要を終え、床で衣を畳んで片膝立ちの状態から立ち上がろうとしたら、
「びびん!」
と腰に衝撃が走ったので、すぐさま力を緩めて手をつきました。
25才くらいの時に一度ぎっくり腰をやって以来、それからは腰がぐんにょり痛みを覚えることはあっても、これほどはっきりした痛みが出たのは久々です。
まだ痛みを感じてすぐ力を解いたからよかったものの、もしそのまま動作を続けていたらえらいことになっていたかと思います。なので本当のぎっくり腰?の6割くらいの痛みでしょうか、小さい歩幅でちょぼちょぼ歩いて、車に乗り、次の法要に向かったのでありました。法要前の法話も椅子に座ってしました。

本当なら、夕方5時半から金山で愛知県宗教青年会議の僧侶・神官が集まっての震災義捐金募金に参加するつもりだったのですが、申し訳ないながら欠席させていただくことにしました。


追記:本日(23日)早朝あまりの痛さに寝返りも打てず、動くたびに声が出そうになる痛みに耐えながら30分くらいかけてやっと立ち上がり手洗に行けば、もう寝起きのあの激しい辛さを想像すると横になることも出来ず、痛みに耐えつつも立つか腰掛けるかして明るくなるのをひたすら待ち、嫁さんに車で病院に送ってもらいました。診察と処置を受けて少し楽になりましたが、気長に治していくほかないようです。

2011年3月17日木曜日

義捐金募金をしてきました(真言宗智山派・東海智山青年会)

今日(H23/03/17)は冷たい風が吹いていましたが、被災者の方々はもっと遥かに冷たいところで震えていることでしょう。

本日、真言宗智山派・東海教区の青年会のメンバーで、大須観音さん本堂前で東日本大震災被災地への義捐金を募りました。
募金活動をして、あちこちで同様の活動が行われている昨今でも、老若男女、本当にたくさんの方々が募金の呼びかけに応じて下さいました。皆さんがこの東北の地の災難において助け合うことに深く関心を持っているのだろうなあと感じました。

おかげをもちまして387,315円のお志を募る事が出来ました。ありがとうございました。皆様のお気持ちは社会福祉法人中日新聞社会事業団を通してお届けさせていただきます。

他にも愛知県宗教者青年会議(仏教各宗・神道)でも募金活動を予定しています。また、私の所属しております、公益社団法人名古屋青年会議所(名古屋JC)でも23日まで伏見など各所で募金活動を行ったり会員から救援物資を募ったりしています。
その上部団体の日本青年会議所(日本JC)では二日間で既に仕分けされた80tの救援物資を集めたりなど、各方面でそれぞれの組織や持ち味を生かした活動をしております。

ものすごい犠牲が出たというその事態にあって、幸いにして今生きている人びと一人ひとりが持っている善をさらに発揮させていくことができますように。

2011年3月14日月曜日

次はお前だ

上記タイトル、古代ローマの墓碑銘にこういうのがあるのだそうです。(池田晶子『人間自身』最期のエセーで読みました)

言い換えれば「人ごとではない」、「明日は我が身」。

「わたし」たちの人生は等しく不測の事態に満ちている。
あそこで起こっている災害は、場所と身体は違えども「わたし」の出来事なのです。

できる事をしよう。
生きるという事についてよく考えよう。

2011年3月13日日曜日

大震災

伝えられることの数々に泣けてきそうな気持ちにおそわれます。
自分にできる事は本当に大したものではないですが、
一日も早く善い方向に向かわれることを祈るばかりです。

2011年2月14日月曜日

はったり

「〜を知っている」という人より、「〜を知らない」という人の方が、探求や思索への志向がある。と感じることがあります。(もちろんこれに当てはまらない人もいます。例えば、調べ尽くしたり、考え尽くして得たものについての確信がある場合がそうです。そういう人はあまり「知っている」とは喧伝しませんが。)
自身を振り返りつつその気分を探ってみると、「〜のことを知る」とうそぶくその時、その分野の知識も思索も偏っていて、穴だらけであることを同時に見て見ぬ振りをし、ときには相手を煙にまこうとしているのです。わざとすることもあるし、無自覚にやってしまうこともあるでしょう。

年数を重ねたから知っているとは言えない。その分野に関わっているから分かっているとも言えない。
ごじかいごじかい。

2011年1月20日木曜日

縁起の悪いおこない


、境内の掃除がてら焼却炉の裏を見ると、中身の詰まっていそうな紙袋が置かれていました。
持ち上げてみると結構重いのです。誰かが捨てていったようです。

開けてみると、
お正月の鏡餅がいくつも入れられていました。しっかりカビだらけ;

食べもしない餅ならば飾らなければいいのに、と思うのです。今どきなら保存のきく切り餅入りのパックや、あるいは絹などで作った見た目にも美しいお鏡型の工芸作品もあります。

また、こういう鏡餅やしめ縄などを(お焚きあげを申し込むのではなく)寺や神社に捨てるのなら、どういうつもりでそれらを飾るのかな、と考えてしまいます。
家や生活を守ってもらい、年神様を呼び込もうとする大事な縁起物なら、そのお焚きあげだってしかるべき扱いをしてもらおうとするはずでしょうし、
そんなものは関係ない、季節の装飾に過ぎない。そう考えるのならそれは自分の手で分別して捨てればいいのです。

自分で始末するのはコワいような気がするけど、ちゃんと寺社に焚きあげを依頼する気はない。そこで寺社の境内や焼却炉に投棄しにいく。それでなにか安心出来る処分なりをしたつもりになる。

もし、こういった中途半端な気分でこうしたのなら、それはすごく縁起の悪いことですね。しかも自覚が無いだけにこわい。

「縁起」とは物事の原因と結果の連鎖を意味します。
普段どのように考え、どのように行動するかが、その後の幸せor不幸せのスパイラルを導いていくのです。

要らないものの処分を押し付けられた些かの不愉快よりも、ちょっと色々な事を想像してしまった朝でした。